ご由緒について
およそ1300年の歴史を持つ妙義神社は、駒込に鎮座しております。
伝承によれば、日本古代史における伝承上の英雄 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、当時東国にいた民族である蝦夷を討つために東征した際、この妙義神社がある場所に陣営を構えたと伝えられています。
人々は、御威徳慕い尊びまつりこの地に社が建てられました。
日本武尊が白鳥に生まれ変わり飛び立ったという伝説から、白雉(はくち)2年(651)5月12日、白鳥社と号しました。
豊島区内では最古の神社として伝えられています。
「新編武蔵風土起稿」※によると、最初に江戸城を築いた室町時代後期の武将 太田道灌は、文明3年(1471)5月、古河公方 足利成氏との戦に出陣する際、当社に参詣し、神馬、宝剣を寄進し戦勝を祈願しました。
その時、近臣である樋口与三郎兼信と次のような連歌を詠んだと伝えられています。
雲はらふ この神垣※の風の音 (道灌)
草をも木をも 吹きしほり行 (兼信)
※「新編武蔵風土起稿」・・・文化・文政期、1810年から1830年にかけて編纂された武蔵国の地誌。
※神垣・・・神社を囲い神域と他を区別する垣。
道灌はこの戦に勝ち凱旋した際、当時の通貨である15貫文を社領として寄進しました。
その後、文明9年(1477)春、平塚城(現在の東京都北区上中里)を拠点とし関東管領上杉家に反旗を翻した豊島勘解由左衛門を討伐する際や(長尾景春の乱)、同11年(1479)春、室町幕府に造反した千葉孝胤を攻める際にも道灌は当社に必勝を祈願し、見事勝利を収めました。
当時、当社境内には稲荷山という小高い山があり、道灌は稲荷山に立ち豊島氏の平塚城を望みながら戦略を考えたのではと思われます。
この様なことから、当社は当時から「勝負の神様」「戦勝の宮(みや)」と呼ばれることとなり、人々よりあつい信仰を集めました。
かつて当社には、道灌の木像や道灌が奉納した宝剣、古文書・古記録など様々な社宝がありましたが、残念ながら、大正12年(1923)9月に起きた関東大震災や昭和20年(1945)4月の空襲により、社殿・社務所とともにすべて焼失しました。
幾度かの災禍に見舞われてきましたが、そのたびに氏子崇敬者の方々のご協力により、いち早く復興を成し遂げることができました。
昭和40年(1965)3月に社殿を造営、続いて、翌年12月に社務所を落成いたしました。
末社・道灌霊社には太田道灌公が祀られており、庚申塔は寛永19年(1642)11月の造立で、豊島区有形文化財に指定されました。
しかしながら長い年月、風雪に耐えて参りました社殿・社務所ともに老朽化が著しく、さらには境内に隣接した児童遊園の下の車庫・倉庫におきましては崩壊の危険性をご指摘されたことにより、氏子崇敬者の皆様の篤いご協賛と関係各位のご尽力によりまして御社殿御造営、境内整備などを行い、令和2年8月に竣工いたしました。
【妙義坂乃神社縁起】【白鳥社伝承】【新編武蔵風土記稿】には当社についてこう記さてています。
豊島郡日頭白鳥神社、白雉二年辛亥五月所祭日本武尊也、昇龍。降龍。運慶の作と云 拝殿。勝軍宮の三字を篇す。
旧に復す この度の御造営事業により、木造の神明造、拝殿に勝軍宮の扁額、社殿の昇龍と降龍の彫刻と、昔の神社の姿を復元することができました。
白雉2年(651)から、1300年以上もこの地を見守り続けた妙義神社。
長い歴史の中で時代時代の方々が神社を守り引き継いで来られました。
そして、節目には社殿を立て替えるなど改まりを繰り返し今に残してくれたもの。
『妙義神社御造営事業』で往時の姿を蘇らせ、次世代へと継承することができました。
これからもこの神社が地元に親しまれ神様が守って下さるようお祈り申し上げます。
ご祭神について
◎御祭神 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
妙義神社の御祭神である日本武尊(やまとたけるのみこと)は、第12代景行天皇の皇子であり、勇敢で利発な人物であったと言われています。
日本武尊の力を恐れていた景行天皇は、自らから遠ざけるために九州の熊曾建(くまそたける)兄弟の討伐を命じました。
平定の旅に出た日本武尊にとっては苦難の連続でしたが、伊勢神宮の斎宮であり日本武尊の叔母でもある倭姫命(やまとひめのみこと)から与えられた着物で女装をし、敵を油断させることで見事に勝利し、平定を成し遂げました。
日本武尊の名は、もとは小碓命(おうすのみこと)また倭男具那王(やまとおぐなのみこ)といいましたが、敗れた熊曾建から「これからは、ヤマトタケルノミコトと称えましょう」と名前を贈られました。
◎相殿神(あいどのしん)
高御産霊神(タカミムスビノカミ)
古事記や日本書紀にある天地創世・天地開闢の話によれば、天地のはじめに高天原に現れた造化三神(ぞうかさんしん)の中で、天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)の次、神皇産霊神(かみむすびのかみ)の前に現れた2番目の神です。
「産霊(むすひ)」は「生産・生成」を意味する言葉であり、3番目の神、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神とされます。
神功皇后(ジングウコウゴウ)
仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、名を気長足姫尊(息長足姫命)(おきながたらしひめのみこと)という。
仲哀天皇が熊襲(くまそ)を討つため筑紫(つくし)の橿日宮(かしひのみや)香椎宮(かしいぐう)。にきたとき、天照大神(あまてらすおおみかみ)と住吉(すみよし)三神が皇后にのりうつって託宣を下したが、仲哀はこれを信じなかったために急死した。そこで神功は、身重の体であったにもかかわらず新羅を討ち、無事帰国後、筑紫の宇美(うみ)で後の応神(おうじん)天皇を出産したといわれております。
応神天皇(オウジンテンノウ)
仲哀(ちゅうあい)天皇の皇子で、母は神功(じんぐう)皇后と伝える。諱(いみな)は誉田別尊(品陀和気命)(ほんだわけのみこと)。筑紫(つくし)で生まれ、母とともに大和(やまと)に赴き、神功皇后の次に王位についたという。
◎境内の末社
太田道灌霊社(オオタドウカンレイシャ)
御祭神 太田道灌公
室町中期の武将・歌人。名は持資(もちすけ)、のち資長(すけなが)。道灌は法名。扇谷(おうぎがやつ)上杉家の重臣。1457年、江戸城を築く。上杉家の策謀により、主君に暗殺された。軍法にすぐれ、和漢の学を修め、和歌に秀でた武将であった。
妙義神社の大神様を終生の守護神として崇められていました。